陶房の風をきく ~ 作品傳百世 石黒宗麿展

明日より石黒宗麿展が始まります。
鉄釉陶器で重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けておられる宗麿先生ですが、唐津、磁州窯、宋赤絵、三彩、チョーク描、彩瓷、楽など多種多様の作品を残されています。作陶以外にも書画作品も残され、心情を漢詩にしています。

1週目は先生のお人柄を表すエピソードを少しご紹介したいと 思います。



●セイタクを知らぬ者、芸術家の資格なし

富山県で生をうけ、出自は複雑だったようですが、その後比較的裕福な家庭で育った宗麿先生。そのためなのか、陶芸だけでは食べられなくても、生活のための作陶ということはなかったようです。


元芸妓さんだった奥様を見受けをするのに必要だったお金を工面するのに伯父上の土地を無断で抵当に入れてしまい、警察に連行留置された。

とか、

内弟子だった原清先生によると「一窯焚いて、作品として売るのは4つか5つという状態で、陶器作りを生業にするといった姿勢ではなかったし、あんな生活真似しようとしてもできるものではありません。」

とか。

「金が入れば湯水のように使い、金の勘定ということを知らない人だったようである」とは小山冨士夫先生談。


「かといって暮らしが貧しかった訳ではない。身に着けるものは超一流品で、味にも喧しかった」のだそうです。祇園の一流茶屋がお好みで、スケッチブックには『セイタクを知らぬ者、芸術家の資格なし』なんて書いて残したり。

とにかく、豪快なエピソードをお持ちです。


ちなみに、警察に連行されたことは新聞にも載ったほどの出来事だったそうで、面会に行った奥様に対して「この女は関係ない、全て自分の一存でやったこと」と警官に語ったのだそうです。とても堂々として立派だったため、奥様は一生添い遂げようと決心されたのだとか。そして、この新聞記事の切り抜きを肌身離さず大事にされていたといいます。

こういうところが人を惹きつける何か、なのでしょうか。



●器用さをいかに抑えるか

「あふれるばかりの技巧を極力抑えつつ、常に何気なく作られたかのような温和な様式的特徴を持った、品格の高い作品」を作られたと評されますが、

「ちょっと人と違った感受性というか、頭も素晴らしかったと思いますが、感受性が素晴らしかった。そして無類に起用だった。それが自分でお分かりになってる訳なんですねぇ。器用すぎるやつにはろくなのがいないってことが。

その器用さをいかに抑えるかに、一生葛藤されたように思います。往々にして器用さで突き進んで、普通でしたらそれで一生終わるんですが、先生はいかにそれを抑えるか、内面的なものというか、どんな仕事をやられてもやきものの持っている素材の良さを打ち出す仕事をしてますねぇ。

だから先生の仕事はやきものの魅力というか、何か惹きつけるものがあるんです。人間も何か魅力がありましたですねぇ。」

1993年生誕百年記念石黒宗麿展にて清水卯一先生の講演より


先生の作品を見ていると、凛とした中に色気というと語弊があるかもしれませんが、そういう何かを感じます。古典というものを強く感じさせ過ぎることなく、もちろん高い技術を持ち合わせているのだけれど、その時に生きている感覚や、人としての色、そういうものが自然と感じられるのです。

それが、上記のように無作為ということでもなく、器用さを抑え込んだ先にあったものだったということに感心してしまいます。



『彫刻とは人形ではない、形態を借りて作家の思惟を表現する書道である 

表現する為の技術も必要であるが、表現せんとする内容が心の奥に生まれて居なくてはならない、それが深遠な、生涯解くことの出来ない謎を解かんとして、ギリシャ以来多くの芸術家が身命を打ち込んで来た 

それでも足りない何者かがある、それを探し出すことが彫刻家の人類に対する使命なのである、我々が一個の茶碗を通して、何物かを表現せんとしているのと同じことだ』





●小山冨士夫との出会い

京都蛇ケ谷時代。宗麿先生はたまたま近所に引っ越しをして来た小山先生と運命のような出会いをされます。毎日行き来をしては、陶芸の議論に明け暮れたといいます。その後宗麿先生が亡くなるまで親交を続けられるお二人。

東洋陶磁の研究者として世界に知られた小山先生が、やきものに捧げたといえる生涯において、作陶で始まった後、研究者となったのには、この宗麿先生との出会いが大きかったように思います。

まさにスープの冷めない距離にいた親友は、天才でした。

小山先生のあまりに有名な「花盃」。宗麿先生が描いた宋赤絵の「花」を見て、「君はいいな、花の絵が上手で。僕は絵が描けないから花の絵の代わりに「花」という字を書くよ。」と言って生まれたという。

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●唐津

『唐津ハ今迄私等の考へて居たものとは全然異なって居りました。もっともっと素晴らしいものでした。二三の聚蔵家のもの 初期のものを拝見して驚きました 決してキタナイ そして亡国的な 茶趣味な 隠遁的なものではありませんでした 実ニ強靭な するどいそしてあかるいものです 只全体的に日本人らしい潔癖と静かなものが内蔵されております』『此処はやがて私の骨を埋めるところ この土の中に眠れたら魂が喜びます』
1935(昭和10)年 宗麿先生より大原美術館初代館長へ送った手紙より

当時古唐津技法の再現に挑んでした十二代中里太郎右衛門(のちの無庵/人間国宝)先生宅を拠点に2か月ほど滞在し、作陶もしたといいます。このときに見た古唐津陶片とあわせて、その後の制作に大きな影響を与えたと言われています。

生涯において「唐津」を多く作った宗麿先生。晩年にはその中でも鉄絵(絵唐津)が多く半数を占めています。自信作には『石黒唐津と云ふ』と箱書きするほど。

絵唐津は鉄絵、斑唐津、朝鮮唐津などの藁灰釉は失透釉、白濁などと呼んでいたのも特徴的です。

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こうして、いろいろな作家さんの人生を少し振り返ってみるにつけ、その多くの人は皆、縁がつながる力というか、運というか、絶対的にそういうものを持ち合わせているなぁとしみじみ思います。それは人であっても、ものであっても。そして、やはりどの人もその瞬間を決して逃していないのです。それを感受性というのでしょうか。気付く力というのでしょうか。


次週は、先生の心情を表す書画について、少し触れてみたいと思います。

石黒宗麿展は2週にわたって展示致します。
ご高覧いただければ幸いです。



◇◇◇

【作品傳百世 石黒宗麿展】
開催期間:2021年2月26日(金) ~ 2021年3月9日(火)
休業日:3月4日(木)・7日(日)

Exhibition of ISHIGURO Munemaro
Exhibition : February 26 to March 9, 2021


<石黒宗麿 / 陶歴>

1893年 富山県新湊市に生まれる
1912年 県立富山中学を中退し、上京してしばらくは中越汽船会社に勤務する
1917年 郷里の家で楽焼を楽しみ陶芸に興味を覚える
1925年 金沢に移り隣家で伊賀・三嶋・刷毛目の焼きものを焼く
1927年 京都市今熊野日吉町、10年には京都市八瀬と仕事場を移しながら
    その間専ら中国、朝鮮における作陶技術の解明にあたり、その復元に務める
1937年 パリ万国博覧会で銀賞を受ける
1940年 中国、朝鮮を巡歴、わが国で初めての木ノ葉天目制作に成功する
1952年 天目釉の再現技術で無形文化財に認定される
1955年 鉄釉陶器の技術で重要無形文化財保持者に指定される
    日本工芸会の理事に就任
1956年 郷里新湊市の名誉市民となる
1968年 75歳で死去


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(恭)


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