陶房の風をきく ~ひとりたのしむ 昭和巨匠陶藝逸品展

本日より始まりました『ひとりたのしむ 昭和巨匠陶藝逸品展』。3週にわたってご紹介して参ります。

1週目は、河井寛次郎先生について見て参りたいと思います。



●鐘渓窯と無名性
鐘渓窯(しょうけいよう)とは、京都・五条坂にある河井寛次郎記念館に今も残される登り窯のこと。

清水六兵衛家ゆかりのこの窯を譲られた際、町名の鐘鋳(かねい)町と、清水寺から流れる音羽川のせせらぎから名付けられました。島根県安来出身の先生がなぜ京都を活動の場に選ばれたのか聞かれると、この窯があったから、と答えたといいます。

この窯は寛次郎先生亡きあと、昭和46年に「大気汚染防止法」が施行され、市中で窯を焚くことができなくなるまで使われました。



No.14  鐘渓窯 木ノ葉碗
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この頃は『鐘渓窯』という印銘が入っていますが、以降、印も含め、銘を入れなくなります。そこには、個展デビューのときから持つ、ある想いがありました。

『美を對照としてよりよきものを造って見たいと思ひます。然し、その為めに、斯うしたら美しいとか、よく見られやうとか、と思ふ心持から超越したいと思ひます。支那のものは、作者も誰であるか全くわからない無印のもので、よし印しがあっても、それは萬暦年製といふやうな、一時代を表はしたものです。一向小さな狭い銘などに囚はれてはいないやうです。どんなものゝ中に放り出されても、然も無銘の支那古陶器は判然と光つて居ります。』(高島屋美術畫報 大正十年十一月號より)

自分が銘を作品に入れるのは、支那(中国)の名陶の中において拙い自分のもの、という区別の意味で入れていたのだそうです。


昭和41年に亡くなるまで、先生の作風は3つに変遷しています。中国や朝鮮の古陶磁に倣った初期、民藝運動と連動した「用の美」の中期、そして戦後の自由な造形世界の後期。

初期から中期、民藝運動の流れへ向かう先生は、作風転換のため3年の期間を経て個展を再開された時には、銘を入れることは無くなりました。


●そして無冠
また、寛次郎先生は、国による重要無形文化財技術保持者、いわゆる人間国宝を保持されていません。

内報のたびに辞退されているということでしたが、ある方が「なぜおことわりになるのですか」と聞かれたところ、『辞退しているのではないのだ。まだ私の順番が来ないのだ。他に全国津々浦々には、世に隠れて宝を創っている人たちがいっぱいいるのだよ。その人たちが労いを受けたあとに私の番が来るのだ。』とおっしゃられたとか。




●『暮しが仕事、仕事が暮し』
昭和12年に自邸の設計、建設を行います。それが今の河井寛次郎記念館です。没後、ご遺族の方々による保存、記念館運営が行われており、寛次郎先生の暮らしぶりを見ることができます。

『暮しが仕事、仕事が暮し』という言葉通り、ご自分でデザインした家具や収集したもの、もちろん作品も多数見ることができます。



河井寛次郎記念館の入り口看板
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見事な欅板に彫られた書は棟方志功先生
制作は黒田辰秋先生








鐘渓窯
長さ13.1m、幅4.7m
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寛次郎先生の作品は第2燃成室で多く生み出されたそうです。


当初、9室の燃成室があった。昭和30年代(1955-1964)半ば、燃成室の下1室を潰し、焚口を一段上げた。焚口は地面より深く掘り下げられたところに上下二段ある。上部は半円形(半径1.8m)、下部は長方形(縦60cm、横30cm)をしている。その間は耐火煉瓦(10cm)により仕切られている。焚口の上には、横に6つの色見孔が開けられている。8つの各燃成室の両側に、通常時の出入り口とともに、それぞれに色見孔(直径10cm)が空けられている。素焼された作品は釉薬をかけ、1350度で焼成。






素焼窯 
奥行き1.8m、幅1.6m
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1937年頃、自ら考案、製作。

焚口は北側に4つ開き、上部で煙突に繋ぐ。この窯では、乾燥後の粘土作品に対して松割木が投じられた。600-700度で8時間前後をかけて素焼していた。




轆轤場
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また、館内にはあちらこちらに椅子が置かれています。


臼を使った椅子
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惜しげもなく(それはもうびっくりするほど、ある意味無造作に)置いてある作品を眺めながら、ゆっくりまったり過ごすことができます。生前はいつも人が集まったというおうちですが、その居心地の良さは先生のお人柄と美意識の賜物でしょう。

京都の暑い夏でも窓が全開。ここを吹く風がなんとも言えず心地よいのです。



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庭の丸石
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『この世は自分をさがしに来たところ この世は自分を見に来たところ』
(河井寛次郎 「いのちの窓」より)


先生の作陶人生の中には、この時代の作家皆さんに共通しますが、戦争による中断があります。土に向かう時間を、先生は筆を手に机に向かい、多くの言葉や文章を残されました。今、このゆらぎ多く、不寛容で皮肉な社会において、先生の言葉は改めて心にささるのではないでしょうか。




次回は看板つながりで、黒田辰秋先生について見て参りたいと思います。





【ひとりたのしむ 昭和巨匠陶藝逸品展】
開催期間:2020年6月22日(月) ~ 2020年7月7日(火)
休業日:6月28日(日)、7月2日(木)


The Grand Masters of Showa Era
Exhibition : June 22 to July 7, 2020
Closed: on Sunday June 28 and Thursday July 2, 2020
 


オンライン展示会も同時開催中です。




<河井寛次郎 / 陶歴>
1890年 島根県に生まれる。
1910年 東京高等工業学校窯業科に入学、板谷波山の指導を受ける。
     濱田庄司と共に釉薬や中国陶磁などの研究を行う。
1920年 京都五条坂にて作陶を開始する。窯は「鐘渓窯」と名付ける。
1926年 柳宗悦、濱田庄司らと共に『日本民芸美術館設立趣意書』を発表。
    「民芸運動」に関わる。
1937年 パリ万国博覧会でグランプリを受賞する。
1947年 寛次郎の詞『火の誓い』を棟方志功の版画で制作する。
1955年 文化勲章、人間国宝、芸術院会員などへ推挙されるが辞退している。
1957年 「ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展」でグランプリを受賞。
1966年 晩年まで無位無冠の陶工として創作活動を行う。76歳で死去




(恭)


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黒田草臣ブログ: http://01244367.at.webry.info/
しぶや黒田陶苑のホームページ: http://www.kurodatoen.co.jp/